大判例

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名古屋地方裁判所 昭和40年(わ)1642号 判決

本籍

一宮市公園通三丁目一番地

住居

一宮市伝馬通一丁目三番地

会社役員

大島道敏

大正一五年一〇月一三生

右の者に対する所得税法違反被告事件について、当裁判所は検察官中村三次出席の上審理し、次のとおり判決する。

主文

被告人は無罪

理由

本件公訴事実は、「被告人は、昭和三八年度分の所得として給与所得五〇一、二五〇円、これに対する所得税額六、九六〇円の外に、毛糸の定期清算取引による事業所得七五、九八九、一〇〇円、これに対する所得税額四七、九四八、四一〇円があったにも拘らず、右取引の一部を架空名義を使用して行い、その利益は架空名義の定期預金にする等の不正行為によりこれが所得を秘匿した上法定の期間内に昭和三八年度分の所得税の確定申告書を所轄一宮税務署長に提出せず、もって同年度分における所得税四七、九四八、四一〇円をほ脱したものである。」と謂うのである。

一、よって当裁判所は審理したところ、被告人が行った(被告人個人として行ったものか、被告人が森島毛織株式会社の業務として行ったものかは一応別問題として)公訴事実掲記の期間内における毛糸清算取引らによって、公訴事実掲記の事業所得を得たこと、及び被告人が法定の期間内に所轄税務署長に対し、被告人の所得としての所得税の確定申告書を提出しなかったこと、並びに被告人が現実には公訴事実掲記の所得税の納付を免れた(公訴事実の外形的事実)ことについては、

(一)  被告人に対する第四回公判調書中の被告人の供述

(二)  林商事株式会社河合清、土井商事株式会社河田光幸、渡辺治彦商店中村富三郎、田中鉄三郎商店久志本隆、丸村商事株式会社岩井完悦、株式会社小玉商店宮地かすみ作成の各委託者別先物取引勘定元帳写。

(三)  株式会社小玉商店神野源三作成の委託先物取引後計算書写

(四)  東洋綿花株式会社荒木伊三美作成の仕入先元帳写、入庫伝票写

及びその他の各関係証拠によってこれを認めることができる。

一、次に右認定された前記事業所得の帰属主体が被告人であるのか、或は森島毛織株式会社であるのかが本件の唯一の争点となっているわけであるから、当裁判所としては被告人の個人所得であるとして幾つかの理由を述べている検察官の論告要旨並びに森島毛織株式会社の法人取得であるとしてこれに反論を加えている弁護人の弁論要旨を夫々検討し、更に、これらの主張の裏付けとなっている本件各証拠及びその評価について、順次考察を加えてみることにする。而して本件においては、凡ての証拠に照し、検察官の主張するように被告人の個人所得であると認定し得るかどうかを判断すれば足り、進んで森島毛織株式会社の法人所得であるとの積極的認定は必ずしも必要でないことは勿論である。

一、本件の清算取引は、被告人の個人取引であったとの被告人の供述並びにこれに符合する被告人以外の者の供述の評価について。

(イ)  先づ被告人の供述についてこれをみるに、被告人の大蔵事務官に対する昭和三九年七月一七日付の質問てん末書、検察事務官に対する昭和四〇年五月一九日付、同年五月二〇日付検察官に対する同年九月一八日付各供述調書において、被告人は本件の清算取引が被告人の個人取引である旨又は個人取引であることを窺わしめるに足る供述をしている。右供述の真実性については、検察官の主張するとおり他の関連証拠との関連によって慎重に判断されねばならないことは勿論であるが、ここでは一応右関連証拠を離れて、右供述は被告人が真実を述べたものと認められるかどうかを考えてみるに、被告に対する第一六回公判調書中樋口繁男の供述によると被告人の当初におけるこの点に関する供述においては一貫して個人取引である旨を述べていたわけではなく時には会社の取引として行ったものであるとの供述もあり、また右査察官においても本件は被告人の個人取引であるとの先入観のもとに捜査を行い、被告人が種々の理由によりこれに迎合した供述をしたのではないかと思われる形跡も認められ、更に第一七回、第一八回公判調書中の被告人の各供述によれば、勿論本件の公判段階においては被告人は一貫して被告人の個人取引であることを否認しているのであるが、被告人が検察官、査察官及び裁判所の夫々の取調べの段階においてこの点に関して右の如く供述を変更した事情を具体的に供述しており、これらの供述は全く一顧にも値しない単なる被告人の弁解に過ぎないものとまで言い切ることはできず、従ってこれらの供述に照して考えると、被告人の前示自白は必ずしも真実を述べたものであるということはできない。

(ロ)  次に森島礼の検察官に対する供述調書、今井久男の検察官に対する供述調書、県美代子に対する供述調書によれば、同人らは何れも本件の清算取引は被告人の個人取引であった旨供述しているがこれらの各供述は第六回、第一二回公判調書中の森島礼の各供述、第九回公判調書中の今井久男の供述、第一二回公判調書中の県美代子の供述と相対比して検討してみると、必ずしも措信することはできない。

(ハ)  検察官は、林商事株式会社榊原聰守、土井商事株式会社若林一次郎、渡辺治彦商店堀敏夫、田中鉄三郎商店久志本隆の各上申書、丸村商事株式会社岩井完悦の説明書、株式会社小玉商店前田義夫、同小玉勝弘の大蔵事務官に対する各質問てん末書によって同人等が本件取引が被告人の個人取引であったことを認めているように述べているけれども、当裁判所が右各調書の内容を検討してみても同人等が明らかにこれを認めている形跡はなく、仮にこれを認めている趣旨のものと判断したとしても右は夫々の主観を述べているに過ぎないものであって、これらの証書によって検察官の主張するように本件取引が実質的に被告人個人の取引であると断定する有力な証左とはなり得ないものと考えられる。

一、本件の各証拠によれば、検察官がその論告要旨において指摘しているとおり被告人が(一)本件の取引に当って取引先の仲買店に預託した証拠金には自己資金又は本件の取引によって得た利益金を充てていること。(二)本件の取引によって得た利益は、その都度会社の帳簿などに記帳せず、実名又は架空名義或は無記名の定期預金、有価証券などにし、これらの定期預金、有価証券などは何時でも被告人の自由意思により処分し得る状況に置いていたこと。(三)本件の取引によって相当の経費を支出しているに拘らず会社からは全く支出されている形跡がないこと。(四)本件の取引によって得た利益を被告人は現実に意のままに金融上の操作を行っていることなど諸般の事実が認められ、これらの個々の認定事実は何れを採ってみても本件取引が被告人の個人取引であると認め得る一応の証左であると考えられないではないが然し乍ら一面、第六回公判調書中の森島礼の供述、第九回公判調書中の今井久男の供述、第一〇回公判調書中の久志本隆の供述、第一一回公判調書中の若林一次郎の供述、第一二回公判調書中の県美代子、前田義夫、榊原聰守、桜井史郎、森島礼の各供述、第一三回公判調書中の河合清の供述、第一七回、第一八回各公判調書中の被告人の供述を総合して考えると、森島毛織株式会社は昭和三四年婦人服地の製造販売を目的として設立され、設立以来代表取締役森島礼、取締役今井久男及び被告人の三名によって運営されてきた所謂中小企業の同族会社的体質の会社であって、昭和三八年七月の決算期においては表面上六〇〇万円余の損金を出し、このまま営業を継続するにおいては倒産必至の情勢となったため、前記取締役三名が取締役会を開いて協議の結果、この際毛糸の清算取引を従前に比し大々的に行いこれによって利益を挙げ会社の窮状を乗り切ることが決議され、同時に被告人が以前丸島商店に勤務していた当時、同商店が毛糸の清算取引を行った際、その担当者をしていたことがあって、その道の経験も豊富であり、且つ当時森島毛織株式会社の経理担当者でもあった関係から本件の清算取引の具体的方法一切を被告人に一任することになったのであるが当時森島毛織株式会社の主たる原糸の仕入先であった河越商事及び取引銀行からかかる危険な清算取引をやらないよう強く注意されていた矢先でもあったので、これらの事情を顧慮し、この取引はこれを架空名義で行い、その損益の状況も会社の帳簿には一切記帳しないなどの方法が採られて、被告人の手によって本件取引が継続して行われたものであること並びに取引先の各仲買店においても本件取引が森島毛織株式会社が最終的に責任を負う取引と了解し、これら取引に関する売買報告書、損益計算書らの書類は「森島毛織株式会社」或は「森島毛織株式会社大島道敏」宛に夫々送付処理されていたことが認められる。勿論以上認定事実のうち、本件取引の当初において被告人を含む森島毛織株式会社の取締役三名において会社の業務として本件取引を行うこと及びその一切の処理を被告人に一任する旨の取締役会の正式の決議が果してなされたものであるかどうかは本件において極めて重要な点であり、検察官もこの点についての重要性を認めつつその事実を否定的に解しているのであるが、第一〇回公判調書中の長谷川晃の供述によれば、これらの事実を立証するために弁護人から提出された「取締役会議事録」なる書面はその当時の右取締役会において作成されたものでないことは明らかであるが、右はその時の取締役会において決議された要旨をメモした資料に基づいて作成されたものであって、尠くとも右の趣旨の取締役会の決議は何らかの形で存在していたものであることを認めることができる。以上の認定事実の側からすると、主観的、意図的には本件取引は、森島毛織株式会社の業務として行ったものであり、仮にそうでないとしても尠くとも被告人を含む同会社取締役三名の共同事業として行ったものとも認定し得る余地があるものと考えられる。

一、前項前段において認定した諸事実から、本件取引が被告人の個人取引とも認め得られるものとしたことは、前述したとおりであるがこれらの諸事実は、何れも本件取引において採られた具体的な事務処理上の側面を捉えての考察であり、極めて重要な証拠価値を持っていることは勿論ではあるけれども、これらの諸事実は法人の脱税事件の場合においても問々行われることであり、このことの故に本件取引が被告人の個人取引であるとの決定的な資料とは考えられない。更にこれに加えて被告人らが本件取引を行うに至った動機、被告人らの主観的意図などをも併せて考察し、事実の真否を判断せねばならないのであって被告人らが本件取引を行うに至った動機、その主観的意図については前記認定のとおりである。

一、第一六回公判調書中の樋口繁男の供述によると、同人は同時名古屋国税局調査査察部査察課に勤務し、本件取引の実体を捜査した者であるが、同人は主として本件取引の具体的な事務処理上の側面、例えば帳簿上の記載の有無、利益金の保管状況など及び関係人からの聴取り、特に被告人の個人取引である旨の供述のあったことを前提として本件取引は被告人の個人取引である旨の判断を下し捜査を続けたものであることが認められるが、同人の供述によっても本件のように中小企業の同族会社的体質の会社の取締役の地位にある者の行った本件のような清算取引がその会社の業務として行ったものか或はその取締役個人として行ったものかの判断基準は極めて微妙なものがあることが窺えるのである。

一、以上本件の凡ての証拠によれば、本件取引が被告人の個人取引であると認め得られる一面もあり、同時に森島毛織株式会社の業務としての取引であると認め得られる一面もあるというのが当裁判所の心証である。而して刑事裁判において、刑事権発生の基礎となる犯罪事実は凡ての証拠に照し合理的疑を容れないまでの確借の上に立ってこれを認定せねばならないことは当然であるから、右のような裁判所の心証では、未だ本件取引が検察官主張のように被告人の個人取引であるとの確信を有する程度に至っていないものと謂わざるを得ない。結局本件は犯罪の証明が不充分であることに帰するので、刑事訴訟法第三三六条により被告人に対し無罪の言渡をする。

よって主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 野村忠治 裁判官 鶴巻克恕 裁判官軍司猛は退官につき、署名押印することができない。裁判長裁判官 野村忠治)

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